5年前
水野さんの息子さん、翔太君が亡くなって今日で丸5年となる。
その日の朝、6時前、いきなり水野さんからの「翔ちゃんが、翔ちゃんが!」という電話が入った。
すぐに顔を洗い、すぐに着替え、急いで水野さんの自宅についたのは、7時前だっただろうか?
救急車が来てはいたが、既に息を引き取っていた。
あの日から丁度5年が経つ。
一昨日の金曜日に終わったジョブコーチ養成研修。
最終日は、「事例から学ぶジョブコーチ支援の実際」。
午前中は、受講生から提供されたケースを元にした事例検討。
そして午後は、自分たちがこれまで関わったケースを、養成研修のまとめ的に紹介をし、研修を終えていく。
その、最後のケースとして、翔太君のことをとりあげた。
IQ20。最重度。誰もが働けない、と思っていた中、水野さんだけは違っていた。
水野さんがジョブコーチの世界に足を踏み入れるようになったのも、そんな思いがあったからだった。
しかし、我が子は我が子。翔太君のこととなると途端に「母親」になってしまう。
そんなこともあり、僕は15年前、16歳の時からジョブコーチとして彼に関わるようになった。
以来、実習、企業就労、退職、グループホーム、B型、再び企業就労、グループホーム変更、退職、B型へ……。そうした彼の節目節目にずっと関わってきた。
5年前、息子さんを亡くしてから、水野さんはそれこそ消えていくかのようだった。
それまでも、人前に出ることが好きではない彼女が、ますます引っ込んでいってしまった。勿論、その間、くらしえん・しごとえんは大きく揺れた。法人の継続・存続にも関わるほど。
それだけ水野さんの存在は、法人にとって大きなものだった。
1年経ち、2年経ち、3年経ち……。
少しずつ少しずつ、水野さんは顔を上げて、前を向くようになってきた。
「時間というのが一番の薬だった。けれど、ただ時間が経つことだけではなかった。自分が働く中で、人と関わって、社会とつながっていたからこそ、『時間』という薬が効いてきた」と水野さんは言う。
そして「ただ、ひきこもってただ悲しんでいるだけでは、絶対に駄目だったと思う」とも。
決して翔太君のいなくなった穴が埋められたわけではないと思う。翔太君がいない、という日常が事実であるという事を受け入れていった5年間なのだろうか?
世の中、上手くいかないことの方が多いかもしれない。
突然、明日が奪われることもあるのだ、という厳然とした事実。
下をむいてばっかりで顔を上げることも苦しくて苦しくてたまらない日々。
それでも、どんなに時間がたっても、顔を上げる日が来ることだけは信じたい。
そのためにも、まずは自分がしっかりと顔をあげて、前を向いていたい、そんな思いを改めて思う。
これまでのブログの中の翔太君についての記事です。
お時間があれば、ご一読いくださればと思います。